ケージ分子で時間を操る(1) 〜藤田誠研究室〜

  • 自己組織化のマジック

 全く個人的な感想で申し訳ないのですが、このブログの担当者(佐藤)が「世界で一番美しいケミストリー」と勝手に思っているのが、藤田誠教授(工学系研究科応用化学専攻)の研究です。藤田研から生み出される分子の造形美はもちろんのこと、研究の内容もまたそれに劣らぬほどエレガントなコンセプトに貫かれており、いつ見てもため息が出るほどです。


藤田誠教授

 藤田教授の研究の原点となったのは、下図のような正方形の分子です。ビピリジン分子に含まれる窒素原子はパラジウムなどの金属イオンに対して適当な強さで配位結合を作り、混ぜるだけで両者は簡単に結びつきます。この結合は切れたり再結合したりを繰り返しながら、次第に最も対称性が高く安定な構造、すなわち下図のような正方形分子に落ち着くのです。このように比較的小さな分子が自然に寄り集まり、規則性の高い構造に落ち着くことを「自己組織化」と呼び、重要な概念として近年注目されています。


「原点」となった正方形錯体J. Am. Chem. Soc. 1990, 112, 5645

  • ケージ状分子はタイムマシン

これを3次元に推し進めたのが、下図の「ケージ状錯体」です。頂点に窒素原子を3つ持った三角形の分子(トリピリジルトリアジン)は、パラジウムイオンと混ぜると自己組織化によって寄り集まり、ほぼ定量的にかご状の分子を形成するのです。


ケージ状錯体(Nature 1995, 378, 469

 この錯体は中空の構造を持ちます。「自然は真空を嫌う」というアリストテレスの言葉通り、この八面体ケージは様々な小分子を内部に取り込みます。いわばこの錯体は、数分子だけを取り込むことができる「分子フラスコ」であるといえます。そして面白いことに、外部空間から切り離されたこのケージ状錯体の中では、外部では起こらない化学反応が起こるのです。
 例えば、芳香族化合物であるペリレンやトリフェニレンは、極めて安定で反応を起こしにくい化合物ですが、このケージ内では簡単にDiels-Alder反応を起こし、付加体が得られてきます。閉じ込められた分子同士が近距離に置かれて離れられずにいるため、外部では何年待っても起きない反応が、この中ではほんの数時間で進行してしまうのです。



ペリレン(上中)とトリフェニレン(下中)のケージ内Diels-Alder反応(J. Am. Chem. Soc., 129, 7000 (2007)

 また、外部空間では極めて不安定な化学種でも、この内部では安定に取り出すことが可能なことがあります。外部では溶媒や空気などの分子に触れて分解してしまうのに、錯体のケージはそれらとの衝突から不安定な分子を守ってくれるからです。

 たとえば、このケージの内部で、水10分子だけが水素結合によってアダマンタン型に結合した「ナノサイズの氷」が観察されています。通常、外部空間では水分子は無限に広がるネットワークを作ってしまい、ナノレベルで大きさを精密に制御することは容易ではありません。


水10分子から成る「モレキュラーアイス」(J. Am. Chem. Soc., 2005, 127, 2798

 化合物の反応速度は、他の分子とどれだけの頻度で衝突するかによって決まります。先のDiels-Alder反応のように反応しやすいもの同士を閉じ込めれば反応速度は大きく上がりますし、1分子だけを閉じ込めて外界との接触を断てば、反応速度をゼロに近づけることも可能になります。孤立した内部空間は、ある意味で時の流れ方さえ変えてしまう「分子のタイムマシン」の役割を果たす、ともいえます。

 ここに示した例は、一連の研究のごく一部に過ぎません。今までにもこうした研究はなかったわけではありませんが、いずれもケージ状化合物の合成に手間がかかり、内部空間も小さいため、できることはかなり限定されていました。単純な化合物を混ぜ合わせるだけで十分な大きさの孤立空間を囲い込んでしまうこの手法は、シンプルにして極めて強力であり、応用範囲も広いのです。

 この項は次回に続きます。