明治の恩人たち

 東京大学のマークは淡青と黄色のイチョウの葉を組み合わせたものです。実際、構内はイチョウの木が多く、この季節の晴れた日には秋空をバックに、東大マークそのものの美しいコントラストを見せてくれます。


理学部化学東館付近のイチョウ並木

 さてこの付近に立っているのが、エドワード・ダイヴァース像です。ダイヴァースは1873年に来日して1899年に帰国するまで、初代化学科教授として13年、総滞在年数26年にもわたって黎明期にあった日本の化学を指導した人物です。途中爆発事故で視力をほとんど失いながら、情熱的に指導を続けたと言われます。まさに日本の化学界にとって、基礎を築き上げてくれた最大の恩人といえる人物です。


ダイヴァース像

 彼の帰国後すぐに、その恩義に報いるべくこの銅像が建てられ、戦時中は敵国人ということで撤去されないよう、図書館にかくまわれていた時代もあります。現在は化学東館玄関付近で、静かに化学の発展を見守っています。

 さてもう一人、明治期の恩人を挙げるとするなら、アレクサンダー・ウィリアムソン教授でしょう。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンで教鞭を執り、「ウィリアムソンのエーテル合成」にその名を残す化学者です。


アレキサンダー・ウィリアムソン

 ダイヴァースを日本に推薦したのは、このウィリアムソン教授であったとされます。彼自身は来日はしていませんが、櫻井錠二ら16名もの日本の留学生を受け入れ、指導に当たったことで知られます。櫻井は帰国後わずか24歳で東大理学部教授の座に就き、学界のシステムを整えるなど長きに渡って活躍しました。おそらくロンドン化学協会の会長を2度にわたって務めたウィリアムソンから、櫻井が得たものは大きかったに違いありません。

 ところでウィリアムソンが受け入れたのは、櫻井たちだけではありません。まだ明治維新前の1863年、商船に乗って密入国した長州藩の5人の若者を自宅で受け入れ、世話をしています。ウィリアムソンは彼らに英語や礼儀作法を教え、この生活の中で彼らは攘夷の不可能を知ってゆきました。実はこのメンバーこそ長州五傑で、初代総理大臣の伊藤博文、初代外相の井上馨を含め、明治日本の建設に大活躍した人々でした。

 不法入国者であった彼らをウィリアムソンが冷たく追い払っていたら、日本の運命もだいぶ変わっていたかもしれません。その意味でウィリアムソンは日本の化学の恩人というだけでなく、日本の近代史そのものに少なからぬ影響を与えた人物といえそうです。歴史をひもといてみるのも、なかなか面白いものだと思う次第です。