中村栄一教授インタビュー 〜科学と社会、リスクと進歩〜

 2011年に入り、本GCOEの活動も残すところあと1年少々となりました。そこで、当ブログではリーダーである中村栄一教授(理学系研究科化学専攻)にインタビューを行うことといたしました。今回は「科学技術と社会について」というテーマでお話をいただきました。


中村栄一教授(撮影:柴田昌勝

――中村先生はいわゆる有機合成から研究を始められて、さらに理論化学、ナノサイエンス、最近では有機薄膜太陽電池や細胞への遺伝子導入技術など、応用研究にも大いに力を入れています。
鈴木先生、根岸先生のノーベル賞のご業績を見ても分かるように、新しい反応、新しい物質がすぐに新しい産業につながるようになっています。科学者と社会の距離が、非常に近くなったことを感じます。これは、一般の人と科学の距離が近づいたということでもあります。科学の常識が国民にも必須になりました。科学の基本は確率と統計ですが、これが現代人の生活に必須の常識となりました」


――研究と社会との関係を意識されることが多いと思います。
「例えばナノテクといわれる分野を扱っていると、いわゆるナノリスクという言葉が出てくる。未知の領域であるナノ粒子には、まだ人類の知らない危険があるのでは、といった声が上がる。実際には、ナノ粒子といっても、言葉が新しいだけです。要は今まで化学者が長く扱ってきた『分子』の集まりであり、ナノ粒子全体に特有な危険があるとは考えにくい。それでも危険が完全にないとわかるまで、研究をストップすべきという声が出てくる。これでは先端研究は成り立ちません」


――フラーレンに魚毒性がある、ナノチューブに発ガン性の疑い、といった報告ですね。
「他の研究者によるダブルチェックが行われないままに報道が一人歩きします。ご存じのように、エタノール、食塩など、あらゆる分子にリスクがあります。しかし新しいもの、見知らぬものに対しては、少しでもリスクがありそうなら全てやめろ、という話になりやすい。リスクという概念を良く理解する必要があります」


――ナノ粒子に限らず、世の中の何であれリスクは本来つきまとうものですが。
「車だって、リスクがありますが、やめようとはならない。個別の事故の悲惨さを強調すると、車自体を廃止すべきだという結論になります。でも、1人1人の日常生活の中で、どのような状況なら何回事故に遭うのかという確率、それにたいして、車を全廃したデメリットは何か、をつきあわせて考える。損得、利点、欠点、経済性に関する確率と統計を、総合的に考えるのがリスクの考え方です。個別の事故を敷衍して、車の開発自体が止まるとなると、世の中の大半の人に不利益が及びます」


――日本人にはリスクを避けたいという意識が強すぎるのかもしれません。
「リスク=危険=避けるべき事と考えて、リスクの議論自体を封じてきた社会のあり方に問題があったように感じます。リスクは悪いことではありません。統計と確率の問題である、と考えてリスクを分析して、ベネフィットを最大に引き出すという考え方を子供の時から教える必要があります。例えば自動車のリコールがあると、大変な悪事のように報道される。しかし自動車という非常に複雑な機械をあれだけのスピードで走らせる以上、一定数の故障・事故は必ず起きます。リコールは本来そうした故障・事故の起きる確率を分析して、何かあればすぐに対応するためのシステムであり、これがあるから安心してそのメーカーの車に身を任せられる。こうした態勢が整っていることは、本来高く評価されるべきことです。」


――日本人のリスク過敏の話は、研究に限らずあちこちで出てきますね。
「例えば最近私の研究室でも、ガラス器具で手を切ったとか、ちょっと思いも寄らないような失敗をする学生が多い。これは小学校で、“危険だから鉛筆をナイフで削るのをやめましょう”といった教育をしているのと無縁ではないかもしれません。目の前の小さなリスクを避けようとして、将来のより大きなリスクを呼び込んでしまっている。これがあらゆる分野で起こっているように思います。」



――こんにゃくゼリーの件など、リスクが問題にされて規制が増えていきます。

「餅の方がずっと危険なのははっきりしていますが、そちらには目が行かないのも妙です。なじみの食べ物のリスクには思考停止,というのはサイエンスにはなじまないですね。そもそもリスクというのは,確率と統計の問題であることが、我が国ではあまり良く理解されていないようです。こうした規制が増えていけば、食べたいものも食べさせてくれない。国による人権侵害という領域に入っていきます。」


――先生は遺伝子技術など医療に近い分野にも関わっていますね。
「医療技術、医薬などでも同じことが起きているようにも思います。医薬、特に抗がん剤などは毒そのものです。“毒をもって毒を制す” 。ですから副作用は必ずあり、リスクはゼロにはできない。ただし、病気をそのまま放置するよりは、”統計的に見て”副作用のリスクをとったほうが良いと考えるから、患者は薬を服用するのです。”統計的に見て”というところがサイエンスとしてキーポイントです.リスクを十分考えて決断するところまでがサイエンス、その先のケアは医術と政治の問題です。」


――医薬分野では、ドラッグラグ(外国の薬が日本に入ってこない。日本で新薬を作らない。)といった問題も指摘されます。
「これもひとつには、日本人がリスクをきちんと把握できていないことの現れかもしれません。薬やワクチンの導入の遅れの理由は、日本にはリスク管理のコンセンサスがないからではないでしょうか。そもそも、海外で臨床試験をして、日本に輸入しているという薬の現状にも問題を感じます。海外での治験に参加した人が払ったリスクの上で、日本人が安全に医薬を利用する。いつまでもこれでいいわけはありません。治験は単なる人体実験などではなく、危険を最小限にするよう厳密に管理された試験です。日本人も薬作りの全体像をきちんと把握した上で、創薬のリスクを日本人自らが取り、世界に貢献する姿勢が必要でしょうね。」



――そのためにはやはりリスクリテラシーの向上ということですか。

「全てのリスクが判明するまで何もしない。こうした考えが、今の日本をがんじがらめにし、日本全体の身動きを取れなくしてしまっています。何もしないことを強制すると,逆に何かしたい人の機会を奪うことになる。統計の考え方を知ることこと、リスクを取る大切さを知ること、あらゆる場面で自らリスクとベネフィット(利益)を比較計量すること、こうしたことが日本人の常識になれば、ずいぶん物事がよい方向に進んでいくと思います。実は、東京大学の大学院生の皆さんが日々励んでいる研究でも、リスクとベネフィットをいつも比較することが、毎日楽しく実験を進められる鍵なんだと思います。」


――どうもありがとうございました。