海の怪物分子、捕獲せり 〜橘研究室

 水族館という施設は、老若男女を問わず常に人気があるようです。我々が普段見る陸上の世界とは全く違う、素晴らしく豊穣なもう一つの世界を垣間見ることができるからでしょう。

 実は分子レベルで見ても、海の生物は陸上とは全く違った世界を造り上げています。海洋生物の生み出す化合物は極めて多彩であり、陸上生物には見られない不思議な構造のものが数多く存在します。これはすなわち、人類にとって有用な化合物――もちろん危険な化合物も――が、多数潜んでいるであろうことを意味しています。

 多様な海洋化合物の中でも特に目を引く一群として、ポリエーテル類と呼ばれる物質群があります。多数のエーテル環(酸素原子を一つ含む環)がずらりと梯子状に連結しており、竜を思わせるようなきわめて奇妙な構造で知られます。
 これらポリエーテル類は、見た目が変わっているだけではありません。これまで知られている低分子化合物の中でも、最強クラスの毒性を持つのです。例えば下記ブレベトキシンシガトキシンの毒性は、猛毒として名高いフグ毒テトロドトキシンさえはるかに凌駕します。



ブレベトキシンB(上)とシガトキシン(下)

中毒を起こした際の症状は様々ですが、温度感覚の異常(非常に冷たいものに触ったかのような感覚、ドライアイスセンセーションと呼ばれる)という非常に特徴的な症状が起こることが知られています。これは、ポリエーテル類が神経細胞イオンチャネル(ナトリウムやカリウムなどのイオンが通過する孔)に作用し、正常な情報伝達を妨げるためと言われますが、未だその全貌は解明されていません。

 この複雑怪奇かつ強烈な毒を作っているのは、意外なことに「渦鞭毛藻(うずべんもうそう)」と呼ばれる、単細胞の植物プランクトンです。



ブレベトキシンを生産する渦鞭毛藻・Karenia brevis

 特にこれが問題になるのは、赤潮プランクトンの大発生)が起きた時です。有毒渦鞭毛藻の大発生により、周辺海域の海洋生物が大量死したケースがたびたび報告されています。また毒化した魚介類を人間が食べることによって重症の食中毒が発生し、大きな被害を出したことも少なくありません。そしてこうした赤潮の被害は、船のバラスト水などによって世界各地に拡散されており、各国で大きな問題となっています。


赤潮の例

 理学系研究科化学専攻の天然物化学研究室(橘 和夫研究室)では、これら海洋天然物の研究に取り組み、これまで多くの成果を挙げています。ポリエーテル類についても、構造決定・化学合成・生体内での合成メカニズムなど、幅広い研究を進めてきました。

 そして今回同研究室では、ニュージーランドで1998年に発生して大きな被害を出した赤潮から、新たなポリエーテル化合物を分離、立体構造の概要を決定することに成功しました。下に示す、ブレビスルセナールFと名付けられた化合物がそれです。



Brevisulcenal F

ブレビスルセナールFは分子式C107H160O38、62の不斉炭素と24ものエーテル環を含みます。分子量は2076と、これまで知られているあらゆる天然物の中でも5本の指に入る大きさで、まさに怪物といえる分子です。

 研究は、日本チームとニュージーランドチーム双方の協力で進められました。まず、ニュージーランド・コースロン研究所のチームが、赤潮から原因の渦鞭毛藻(学名Karenia brevisulcata)の分離に成功します。これを人工的に培養し、1450リットルの培養液から数グラムの粗抽出物を得ました。これが日本に送られ、精製の作業に入ります。



培養容器を持つ佐竹准教授

実験に当たったのは、浜本友佳さん(修士2年)でした。粗抽出物を各種のHPLC(注1)にかけて、様々に条件を変えつつ、細胞毒性のある部分を少しずつ濃縮してゆくという作業になります。


左から橘教授、浜本さん、佐竹准教授


(注1)高速液体クロマトグラフィ。特殊な粒子を詰めた管に高圧をかけて、混合物が溶けた溶液を通過させる。それぞれの化合物は、粒子への吸着度合いによって出てくるタイミングが違うので、分離が可能になる。

いくつか含まれていた有毒成分のうち、Fと番号をつけられた成分が3.1mgほど得られたのは、精製工程開始から1年半後のことでした。単純計算で、最初の培養液から見て量は5億分の1に減ってしまったことになります。これほどの微量でも毒性を示す化合物も凄ければ、こんな量を分離してくる技術もまた大変なものです。

 さてここからは構造決定の段階に入ります。現在ではNMR(核磁気共鳴スペクトル)の様々なテクニックを駆使することで、化合物の構造情報について相当のところまでわかるようになってきました。NMRは化合物を溶液に溶かすだけで測定できる上、貴重なサンプルを失わないで済む非破壊的検査ですので、化合物の構造解析手段として最も普及しているものです。今回の測定は、理研にある800MHzのNMRを用いて行われました。写真にあるような、巨大な装置です。


用いられたNMR。

 しかし、このクラスの化合物になってくると、NMRのデータも凄まじいことになります。最も基本的な1H-NMRのデータは下図のようなもので、経験のある人ならおわかりの通り、いったいどこから手をつけてよいか途方に暮れてしまうようなレベルです。


1H-NMRチャート

 ここに二次元NMRの様々な技術を適用することで、少しずつ解きほぐしていきます。例えばDEPTという手法では、ある炭素に水素がいくつ付いているかが判別できます。またHSQCという手法では、どの炭素とどの水素がつながっているかが判別できます。こうしたデータを積み重ね、少しずつパズルを解くように構造を解きほぐしていくわけですが、何しろ相手は怪物級の化合物、解析には一年以上を要しました。

 こうして解明された構造が、上にあるものです。質量分析を用いた解析でも、この構造は裏付けられました。ただし機器分析だけでは完全な決定が難しい部分もあるため、まだ一部立体配置が不明な箇所が残っています。考えられる部分構造の合成を行い、天然物と比較する研究がすでに始まっています。

今回の研究は、そのスケールひとつとっても、天然物化学の分野における金字塔といってよいと思われます。またブレビスルセナールFの毒性は、ラット経口投与での半数致死量が0.032mg/kgという数値でした。これは、猛毒として有名な青酸カリの、約300倍にも相当する毒性ということになります。その作用メカニズムを調べることで、イオンチャネルの機能や構造の解明にも寄与すると見られ、生物学的にも興味深いものです。

また抽出物には、まだ分析がなされていない化合物が残っています。これらの中に、さらに強力な化合物が残っている可能性も大いにあるでしょう。今後の研究が待たれるところです。


指さしているかたまりが、ブレビスルセナールFを表す。左側に、いくつかの未知化合物の集団が見えている。

 そしてその先には、「なぜ渦鞭毛藻はこんな化合物を作っているのか?」という最大の疑問が待っています。1mmの数十分の1しかないサイズの彼らが、単に身を守るために作っているというには、あまりにも大がかりすぎるようにも思えるのです。
 実のところ、「なぜ生物は化合物を作るのか?」というテーマこそ、天然物化学の究極の謎です。自然は極めて多様な化合物を造り出していますが、何のためにこれだけの物質を手間暇かけて合成しているのか、説明がつかないようなケースが実際にはたくさんあります。

 これは突き詰めていけば、生命とは何か、自然とは何か、というところにたどり着くのでしょう。天然物化学の挑むべき謎は、まだまだ奥が深いようです。