ケージ分子で時間を操る(2) 〜藤田誠研究室〜

  • ネットワーク状錯体

 ということで、前回の続きです。

 藤田教授の研究は、こうしたケージ状錯体だけにはとどまりません。こうしたケージが無限に繰り返された構造を持つ、ネットワーク状錯体の研究にも力が注がれています。藤田教授は、実際にはこちらの方を早くから手がけていたのですが、当時(20年ほど前)の技術では構造の解析がなかなかうまくいきませんでした。近年コンピュータの発達などによって、こうした格子状錯体の解析も可能となり、研究の道がようやく開けたのです。

 例えば、先ほどのケージ状錯体に用いたと同じ配位子を、ヨウ化亜鉛(II)及びトリフェニレンと混合すると、内部に網の目のような空間を持った、ネットワーク状の結晶が出来上がります。いわば、先ほどのケージ錯体を、びっしりと3次元空間に詰め込んだようなイメージです。


ネットワーク状錯体。角度を変えて見たところ。

 
 この細胞のようなひとつひとつの空間もまた、「分子フラスコ」として使うことが可能です。例えばトリフェニレンに反応点となるアミノ基を仕込んでおき、ここに各種試薬を流し込んでやると、アミノ基と結合して付加体を与えます。
とはいえ、それだけならば外界で行う反応に比べて特別な利点があるわけではありません。このネットワーク状分子フラスコの一つの特色は、通常ならば反応に影響を与えうる溶媒や空気などの分子を、完全にシャットアウトできる点にあります。これにより、通常では取り出すことのできないような不安定化合物を、安定な状態で観測することが可能になるのです。

さらにもうひとつの利点として、X線結晶解析による分子構造の確認も可能です。化合物の構造解析にはNMR・質量分析・IRなど様々な手法が用いられますが、原子の位置のレベルまではっきりと確認が可能なX線結晶解析は、今なお最も信頼のおける方法です。このネットワーク状錯体は全体が丈夫な結晶であり、内部空間に閉じ込められた分子が何か反応を起こしても全く基本構造を変えず、X線結晶解析が可能であり続けるのです。

この2つの特色を最大限に生かした研究が、今回Nature誌に掲載された論文、「X-ray observation of a transient hemiaminal trapped in a porous network」です(Nature 461, 633-635 (2009) )。藤田教授はネットワーク状錯体の性能をフルに引き出し、「ヘミアミナール」と呼ばれる不安定な化学種の観察に成功したのです。

  • ソリッド・ステイト・サバイバー

通常、一級アミンとアルデヒドを混合すると、「ヘミアミナール」を経て、イミンが得られてきます。このヘミアミナールは教科書にも出てくる有名な中間体ですが、溶媒などの他分子に触れるとすぐさまイミンへ変化してしまい、通常の手段で観測することはできません。ましてX線結晶解析は、結晶化から測定に至るまで数時間から数日もかかる手法であり、一瞬で分解してしまうヘミアミナールの姿を捉えるなどは普通に考えるとまず不可能です。


一級アミン(左)にアルデヒド(CH3CHO)を作用させると、短寿命の中間体ヘミアミナール(中)を経てイミン(右)を与える。

初期のカメラは数十秒から数分もの露出が必要であり、被写体は撮影の間身じろぎ一つせずに我慢していなければなりませんでした。X線結晶解析でヘミアミナールの姿を捉えるのは、こうした初期のカメラで、ボールがバットに当たった瞬間を撮影しようとするようなものです。しかし藤田教授らは、不安定分子を長時間保つことのできるネットワーク状錯体内で反応を行えば、この不可能が可能になるかもしれないと考えたのです。


藤田教授(左) 川道赳英さん(中) 猪熊泰英助教(右)

藤田教授のグループは、このネットワーク状錯体内で、一級アミンとアルデヒドを反応させる実験を行いました。アルデヒドを含んだ溶液に結晶を浸すと、内部に液が浸透して反応が起こります。

結晶内に試薬が浸透する様子

たいていの条件ではイミンができてしまった状態しか捉えられませんでしたが、実験条件を様々に変えて1ヶ月ほど粘り強く検討した結果、みごとヘミアミナール構造を捉えることに成功したのです。今まで間接的な手法で存在を推定するしかなかった化合物を、原子レベルで完璧に姿を捉え、その存在を確証づけてしまったのです。


X線結晶解析で捉えられたヘミアミナールの構造

 今回確立された手法は、当然ヘミアミナール以外の様々な化合物にも応用が可能と考えられます。各種反応機構の解明は有機化学の重要なテーマですが、不安定な反応中間体を捉えることを可能とした今回の手法は、この分野に重要なインパクトを与えることになりそうです。
また、危険な物質や爆発性の化合物を安全に取り扱い、その機能を解明する役にも立ちそうです。不安定だが有用な性質を持つ物質を錯体内に「凍結保存」しておき、必要なときにリリースして用いる、といったことも考えられるでしょう。その他、アイディア次第でいくらでも応用は出てきそうです。

今まで化学者は、分子をひとかたまりの大きな集団としてしか扱うことができず、一分子単位での反応・観察を行う技術は進んでいませんでした。一分子〜数分子だけを隔離して扱うという藤田教授の一連の研究は、化学の世界に新しい方向性を示すものです。今後どのような研究が飛び出すか、楽しみに待ちたいところです。


今回の結晶の現物。ここからどんなサイエンスが生まれてくるでしょうか?