マイナスとマイナスをくっつけた話

 電気のプラスとマイナスは引き合うが、プラスとプラス、マイナスとマイナスははじき合う――これは小学生でも知っている、自然界の基本中の基本といっていい大原則です。モーターや発電機など、現代文明を支える機械も、この原理によって動いています。しかしそんな逆らいがたい基本原理を乗り越えるのは、科学者にとって大きな醍醐味でもあります。


川島隆幸教授

 このほど、川島隆幸教授・狩野直和准教授のグループは、負に帯電したケイ素原子同士を結合させるという離れ技に成功しました(Nature Chemistry 2, 112 - 116 (2010) )。ケイ素は通常4本の結合の腕を持ちますが、場合によって5本目の結合を作ることも知られており、その場合ケイ素原子は負電荷を帯びるように表記されます。ただしこの5配位ケイ素化合物は基本的に不安定で、何かあれば結合の一つが脱離し、安定な4配位状態に戻ろうとします。よく知られた檜山クロスカップリング反応は、この作用を利用したものです。
 ましてこの5配位ケイ素同士を結合させるとなると、ちょっと考えただけでも負電荷同士の反発によって簡単に結合が切れてしまいそうに思えます。また、5配位ともなると立体的にも混み合いますから、これも反発を強め、結合を切れやすくする要因となると考えられます。
実際、今までこうした化合物は、安定に存在しうるかどうかの理論的検討さえされたことはありませんでした。そんなものは考えるまでもなく存在しえないもの、合成は無理なものと思われていたのです。

阿修羅結合

 ところが、川島研で今回合成された化合物は、驚いたことに極めて安定であり、水や空気に触れてもびくともせず、100度以上での煮沸や、室温でブチルリチウムを作用させるといった過激な条件にさえ耐え抜きます。
 この新規なケイ素-ケイ素結合に対し、川島研究室では「阿修羅結合」の名を与えました。学術的なネーミングにはいろいろと制約も多いため、いっそのことなじみやすい名前を――と考えての命名だそうです。2つのケイ素から出ている8本の結合の腕を阿修羅の8本の手足に見立て、反応性・吸光特性・電子放出特性という3つの特徴を、阿修羅の持つ3つの顔になぞらえたとのことです。反発し合う負電荷同士による「異形の結合」に、ふさわしいネーミングという気がします。


(「阿修羅結合」分子モデル。灰色は炭素、黄緑色はフッ素、赤が酸素、黄色がケイ素。阿修羅像の写真はWikipediaより)

 では切れそうで切れないこの強さの秘密は何であるのか、今回は狩野准教授・合成を担当した三宅秀明さん(D3)にお話を伺いました。


狩野直和准教授(左)と三宅秀明さん(右)。手前は阿修羅結合の分子モデル。

セレンディピティ

 実を言えば、この化合物は狙って合成されたものではありません。他の化合物の合成を目指している最中に偶然にできたもので、いわゆるセレンディピティ型の研究に当たります。三宅さんはもともと、全く別の化合物の合成を目指し、その中間体としてケイ素に負電荷を持たせようとしていました。ところがこの反応を行うと、驚いたことにマイナスの電荷を持ったケイ素ユニット2つが結合するという予想外のできごとが起こったのです。これは化学の常識に全く反する話であり、当初はいったい何ができたのかかなり悩んだとのことです。


(左のケイ素化合物に金属リチウムを作用させると、電子が受け渡されてラジカルアニオンができ(中央)、それらが2つくっついて「阿修羅結合」ができる)

 この現象の鍵は、ケイ素に結合させていた配位子「Martinリガンド」にありました。この配位子には電気陰性度が最も高い元素であるフッ素が6つもついており、これらが電子を強力に求引することで、負電荷を分散させて反発を防いでいるのです(注1)。またMartinリガンドの堅固な構造は、ケイ素の5配位状態にもぴったりマッチした形であり、その安定化を助けています。


ケイ素-ケイ素結合軸方向から見る

 電荷のことはさておいても、これだけ混み合った化合物同士がうまく結合するものだろうかという疑問も出てきます。しかし詳しい解析結果によれば、リガンドはケイ素-ケイ素結合を軸に約60度ねじれた配置になることでうまくお互いを避けていることがわかりました。CPKモデルと呼ばれるタイプの模型で見ると、ケイ素原子がほとんど見えないくらいに、周りがしっかりとMartinリガンドに覆われており、これが外界からのシールドの役割をも果たしていると考えられます。要するにこのあまりに予想外の分子が生まれたのは、みごとにいろいろなことがうまくはまった結果であるようなのです。


CPKモデルによる表示

 こうしたセレンディピティというのは、単にまぐれ当たりを引き当てたというのではなく、様々な努力を行った上で見つかるものであり、さらに予想外の現象が起きたことを見抜く力、それを解析する能力、その後の研究をサポートする地道な研究などが揃って初めて「成果」と認められるものになりえます。この研究も、実はここからが勝負でした。

 こうした構造では、NMRや質量分析などの手段では構造決定の決め手にはなりにくく、やはりX線結晶構造解析でしっかりと構造を割り出す必要があります。しかしX線解析に適した結晶はなかなか得られず、実験を引き継いだ佐々木啓史さん(川島研OB)の努力によって最適な結晶(ベンジルトリメチルアンモニウム塩)が見つかるまでにかなり時間を費やしたそうです。また理論計算や論文レフェリーとのやりとりなどにも時間がかかり、最初の発見から論文が日の目を見るまで3年ほどかかったといいます。我々が何気なく眺める論文は、実にこうした長期にわたる苦労の結晶なのです。


これが現物のサンプル。文字通りの苦労の結晶です。

研究の今後

 こうした研究がいったいどう役に立つのか?という質問はよくなされるところです。こうしたケイ素をたくさんつないでいくことで、新たな物性が期待できるかもしれない、あるいは高密度の枝分かれを持った新規物質の創製につながるかもしれない――といったことしか現段階ではいえません。
 この研究の価値は、身近な元素であるケイ素の本質に迫り、その新しい面を引き出したというところに求められるかと思います。すぐに役立ちそうな何かを作り出したというのではなく、未知の領域へ向かう大きな橋を架けたというべきでしょう。
 新しい橋の先には何があるのか、今はまだわかりません。すぐには何もなくとも、数十年後に他の発見と結びついて、大きな成果を生み出すこともあり得ます。サイエンスを豊かにするには、目先に囚われないこうした基礎研究も不可欠であり、これこそが理学部の役割であるともいえます。
 現在川島研ではケイ素以外の元素にも適用を図るなど、橋を「広げる」研究も着々と進められています。次はどんなものが見つかるのか、楽しみに待ちたいと思います。


(注1)ケイ素同士の反発が強ければ結合距離は長くなるはずですが、この化合物のケイ素間距離は2.3647オングストロームと、通常のケイ素-ケイ素単結合の長さとさほど変わりません。このことは後に理論計算によっても裏付けられ、負電荷はケイ素に隣接する炭素・酸素に分散していることがわかっています。