セレンディピティ

 実を言えば、この化合物は狙って合成されたものではありません。他の化合物の合成を目指している最中に偶然にできたもので、いわゆるセレンディピティ型の研究に当たります。三宅さんはもともと、全く別の化合物の合成を目指し、その中間体としてケイ素に負電荷を持たせようとしていました。ところがこの反応を行うと、驚いたことにマイナスの電荷を持ったケイ素ユニット2つが結合するという予想外のできごとが起こったのです。これは化学の常識に全く反する話であり、当初はいったい何ができたのかかなり悩んだとのことです。


(左のケイ素化合物に金属リチウムを作用させると、電子が受け渡されてラジカルアニオンができ(中央)、それらが2つくっついて「阿修羅結合」ができる)

 この現象の鍵は、ケイ素に結合させていた配位子「Martinリガンド」にありました。この配位子には電気陰性度が最も高い元素であるフッ素が6つもついており、これらが電子を強力に求引することで、負電荷を分散させて反発を防いでいるのです(注1)。またMartinリガンドの堅固な構造は、ケイ素の5配位状態にもぴったりマッチした形であり、その安定化を助けています。


ケイ素-ケイ素結合軸方向から見る

 電荷のことはさておいても、これだけ混み合った化合物同士がうまく結合するものだろうかという疑問も出てきます。しかし詳しい解析結果によれば、リガンドはケイ素-ケイ素結合を軸に約60度ねじれた配置になることでうまくお互いを避けていることがわかりました。CPKモデルと呼ばれるタイプの模型で見ると、ケイ素原子がほとんど見えないくらいに、周りがしっかりとMartinリガンドに覆われており、これが外界からのシールドの役割をも果たしていると考えられます。要するにこのあまりに予想外の分子が生まれたのは、みごとにいろいろなことがうまくはまった結果であるようなのです。


CPKモデルによる表示

 こうしたセレンディピティというのは、単にまぐれ当たりを引き当てたというのではなく、様々な努力を行った上で見つかるものであり、さらに予想外の現象が起きたことを見抜く力、それを解析する能力、その後の研究をサポートする地道な研究などが揃って初めて「成果」と認められるものになりえます。この研究も、実はここからが勝負でした。

 こうした構造では、NMRや質量分析などの手段では構造決定の決め手にはなりにくく、やはりX線結晶構造解析でしっかりと構造を割り出す必要があります。しかしX線解析に適した結晶はなかなか得られず、実験を引き継いだ佐々木啓史さん(川島研OB)の努力によって最適な結晶(ベンジルトリメチルアンモニウム塩)が見つかるまでにかなり時間を費やしたそうです。また理論計算や論文レフェリーとのやりとりなどにも時間がかかり、最初の発見から論文が日の目を見るまで3年ほどかかったといいます。我々が何気なく眺める論文は、実にこうした長期にわたる苦労の結晶なのです。


これが現物のサンプル。文字通りの苦労の結晶です。